

株式会社 白鳳堂
「ふでばこ 39号」掲載
メガネフレームメーカーの挑戦
シャルマン物語
「シャルマン物語」は、ふでばこ 39号(2019年10月31日発行)に掲載された内容を転載したものです。
プロローグ
国産メガネフレームのおよそ9割をつくる街・福井県鯖江市。
メガネフレームも日本の他の産地製品によく見られる、分業体制が確立されていて、量産が可能となっている。
各部品のエキスパート工場が、高品質なうえでの量産ノウハウを持っている。
しかし、その分業体制が主流のメガネ産地にて高度な技術を駆使した一貫体制で、
まさにメイドイン・日本の本質でモノづくりをする会社がある。
株式会社シャルマン。
メガネのごく小さな部品をつくる工場から、今や世界のメガネフレームの高級市場を席巻する「メーカー」となった。
さらに、メガネづくりで蓄積された技術と新素材を応用、駆使して、異分野への参入を果たし、技術力を知らしめた。
その気概にあふれるメーカーの物語。
1956(昭和31)年。
当時のメガネフレームはセルロイド製であったために、メガネの枠(フロント)と、いわゆる弦(テンプル)をつなぐ蝶番は、長さ1センチ足らずのリベット鋲で留められていた。その鋲を製造する「堀川製作所」が福井県鯖江市に誕生する。堀川製作所は、現シャルマン会長・堀川馨さんの実兄が創業、経営しており、そのため、現会長の堀川さんは、大学卒業の後、当時、華やかなりし繊維商社に勤めていた。
しかし、勤めて三年目の1961(昭和36)年。実兄が体調を崩したために急きょ、堀川製作所を引き継ぐことになった。
当時(現代でも根強いが……)の鯖江の分業体制の世界にどっぷりとつかっていると、とにかく注文をこなすことが仕事であり、世の中のことや自身の将来など深く考えることもなかった。というよりも、考えてもいかんともしがたい事だらけであり、とにかく我武者羅に仕事をこなせば、かろうじて暮らしていけた。

堀川 馨
(ほりかわ かおる)
1934(昭和9)年
福井県福井市生まれ
1959(昭和34)年
滋賀大学経済学部卒業
1995(平成7)年
シャルマングループ会長就任
しかし、外界を知る堀川さんにとっては、夢や希望がわくことのない単純でしかも劣悪な労働であった。当時の「堀川製作所」は、十数人の従業員とともに朝7時から夕方6時まで働き、休日は毎月1日と15日の二日だけであった。それでいて月商はわずか67万円であった。
東京タワーが完成し、新幹線、高速道路、そして東京オリンピックを迎えるころの日本の生産現場は、戦前と何も違いがなかった。しかし、こうした働きにより、戦後復興と高度経済成長を手にすることが出来たのも事実であった。

リベット鋲
ただ、世の中の町工場がそうであっても、時代のめまぐるしい変化と市場の多様化を目の当たりにし、生き馬の目を抜く商売を繊維商社でこなしてきた堀川さんにとっては、歯がゆいことばかりで、産地での暗黙のおきて(後述)など知ったことではなく、部品屋でありながら、地元間屋を飛び越えて営業を始めたのだ。
当時は、高級品製造の東京、輸出用低価格品の量産をする大阪、そしてどちら付かずの福井が日本のメガネフレームの三大生産地であった。
堀川さんは、まず、東京に営業を仕掛けた。そこで得たモノとは……
東京の高級品の市場では「他にないモノ」「美しいモノ」が求められていることを知る。
これまで福井で1つ1円だった鋲の表に金を張るだけで、東京では5円になったのだ。高級市場では、そうしたものが求められていた。
そして、高度経済成長の兆しにより、東京のメガネ市場は大忙しであり、それまでの部品生産の体制では賄い切れない忙しさであった。そのため、田舎産地での生産は、東京の業者にとっても好都合であった。さらに、福井の5倍の価格の鋲も、東京ではそれでも1割安い金額であり、それを安定供給の約束をしたわけだから双方に実があった。
そしてさらに、セルロイド製のテンプルの中に入れる芯金をつくることも東京市場を知って決めた。どちらも福井のメーカーからの発注数とは比べ物にならない数である。
この後、大量輸出を手掛ける大阪にも営業を仕掛け、安定・多量な供給に応えられる会社へと導き、1968(昭和43)年に堀川製作所は法人化を果たした。
しかし、工場の規模と利益こそ増したが、まだまだ一介の部品屋にすぎなかった。部品屋の限界……
1967(昭和42)年の堀川製作所

旧工場社屋

プレス作業