株式会社 白鳳堂
「ふでばこ 39号」掲載
メガネフレームメーカーの挑戦
シャルマン物語
メガネフレームメーカーの挑戦
シャルマン物語
プロローグ
国産メガネフレームのおよそ9割をつくる街・福井県鯖江市。
メガネフレームも日本の他の産地製品によく見られる、分業体制が確立されていて、量産が可能となっている。
各部品のエキスパート工場が、高品質なうえでの量産ノウハウを持っている。
しかし、その分業体制が主流のメガネ産地にて高度な技術を駆使した一貫体制で、
まさにメイドイン・日本の本質でモノづくりをする会社がある。
株式会社シャルマン。
メガネのごく小さな部品をつくる工場から、今や世界のメガネフレームの高級市場を席巻する「メーカー」となった。
さらに、メガネづくりで蓄積された技術と新素材を応用、駆使して、異分野への参入を果たし、技術力を知らしめた。
その気概にあふれるメーカーの物語。
1956(昭和31)年。
当時のメガネフレームはセルロイド製であったために、メガネの枠(フロント)と、いわゆる弦(テンプル)をつなぐ蝶番は、長さ1センチ足らずのリベット鋲で留められていた。その鋲を製造する「堀川製作所」が福井県鯖江市に誕生する。堀川製作所は、現シャルマン会長・堀川馨さんの実兄が創業、経営しており、そのため、現会長の堀川さんは、大学卒業の後、当時、華やかなりし繊維商社に勤めていた。
しかし、勤めて三年目の1961(昭和36)年。実兄が体調を崩したために急きょ、堀川製作所を引き継ぐことになった。
当時(現代でも根強いが……)の鯖江の分業体制の世界にどっぷりとつかっていると、とにかく注文をこなすことが仕事であり、世の中のことや自身の将来など深く考えることもなかった。というよりも、考えてもいかんともしがたい事だらけであり、とにかく我武者羅に仕事をこなせば、かろうじて暮らしていけた。
しかし、外界を知る堀川さんにとっては、夢や希望がわくことのない単純でしかも劣悪な労働であった。当時の「堀川製作所」は、十数人の従業員とともに朝7時から夕方6時まで働き、休日は毎月1日と15日の二日だけであった。それでいて月商はわずか67万円であった。
東京タワーが完成し、新幹線、高速道路、そして東京オリンピックを迎えるころの日本の生産現場は、戦前と何も違いがなかった。しかし、こうした働きにより、戦後復興と高度経済成長を手にすることが出来たのも事実であった。
堀川 馨
(ほりかわ かおる)
1934(昭和9)年
福井県福井市生まれ
1959(昭和34)年
滋賀大学経済学部卒業
1995(平成7)年
シャルマングループ会長就任
2023(令和5)年
シャルマングループ
取締役名誉会長就任
リベット鋲
旧工場社屋
1967(昭和42)年の堀川製作所
プレス作業
ただ、世の中の町工場がそうであっても、時代のめまぐるしい変化と市場の多様化を目の当たりにし、生き馬の目を抜く商売を繊維商社でこなしてきた堀川さんにとっては、歯がゆいことばかりで、産地での暗黙のおきて(後述)など知ったことではなく、部品屋でありながら、地元間屋を飛び越えて営業を始めたのだ。
当時は、高級品製造の東京、輸出用低価格品の量産をする大阪、そしてどちら付かずの福井が日本のメガネフレームの三大生産地であった。
堀川さんは、まず、東京に営業を仕掛けた。そこで得たモノとは……
東京の高級品の市場では「他にないモノ」「美しいモノ」が求められていることを知る。
これまで福井で1つ1円だった鋲の表に金を張るだけで、東京では5円になったのだ。高級市場では、そうしたものが求められていた。
そして、高度経済成長の兆しにより、東京のメガネ市場は大忙しであり、それまでの部品生産の体制では賄い切れない忙しさであった。そのため、田舎産地での生産は、東京の業者にとっても好都合であった。さらに、福井の5倍の価格の鋲も、東京ではそれでも1割安い金額であり、それを安定供給の約束をしたわけだから双方に実があった。
そしてさらに、セルロイド製のテンプルの中に入れる芯金をつくることも東京市場を知って決めた。どちらも福井のメーカーからの発注数とは比べ物にならない数である。
この後、大量輸出を手掛ける大阪にも営業を仕掛け、安定・多量な供給に応えられる会社へと導き、1968(昭和43)年に堀川製作所は法人化を果たした。
しかし、工場の規模と利益こそ増したが、まだまだ一介の部品屋にすぎなかった。部品屋の限界……
鯖江のシャルマン本社屋(左)と
本社工場(右)
堀川製作所時代のコンテナは、
今も現役で活躍中
当時のセルロイド製メガネに無くてはならない鋲と芯金であったが、メガネフレームは、流行の変化で金属フレームいわゆる「銀縁メガネ」へと移っていった。
主力商品の鋲と芯金が不要な時代になったのだ。しかし、堀川製作所にとって千載一遇のチャンスとなった。
鋲も芯金も金属であり、これらの製造のための金属加工技術は十分に持ち合わせていた。メーカーからの注文がなく、社員全員で一日、工場の敷地の草むしりをする日々もあった部品屋が、オール金属であれば、製造メーカーになれるチャンスであった。
だが、先の「産地のおきて」がある。
なんといっても、地元のメーカーがこれまで堀川製作所を養ってきたようなもので、それが、東京や大阪の産地問屋に直接商品を出荷することは、不義理(裏切り)な行為なのだ。そこで考えたのは、問屋通しの商いをやめて、直接小売店に売ることにした。それでも「堀川製作所」が直販をするのでは、これまた義理を欠くことになる。
ならばと、1975(昭和50)年。
製造・販売メーカーとしての新会社「シャルマン眼鏡」を設立した。幸いにも堀川製作所には、堀川さんの兄が仕事に復帰していたため、会社を託し、新会社で販売に専念することにした。
堀川製作所から数人のエンジニアを連れ立っての新会社だが、肝心の「営業」がそれまでの部品屋には存在しない。そこで元商社マンの堀川さんは……
「メガネのことを何も知らない者」を営業マンとして募集した。自分たちでつくった商品。メガネを愛情と誠意、責任をもって販売するだけ。もしかすると、そんな当たり前な心が産地に長らく浸かっていると麻痺するのかもしれない。そう堀川さんは考えていたのだろう。
この後からはじまる、海外現地法人の設立にあたっても、同じようなスタッフ教育がされた。
そして、なによりもお客への対応とその速さを重視した。このお客とは、小売店であり、ひいては消費者である。
視力を矯正するのがメガネの役割。そのメガネが壊れてしまったのでは、生活に支障をきたす。しかし、小売店にとって来客数の多い、土、日曜日や祝祭日は、メーカーも間屋も休みなのだ。それでは小売店も来店したお客も困ってしまう。そこで、独自のカスタマーサービスを充実させ、年末年始5日間を除く360日、小売店からの問い合わせに応じるようにした。
また、メガネは多品種で、サイズや色など種類も多い。そのため、在庫は小売店の負担であった。その負担を減らし、それでいてお客の好みに合うものを提供できるようにと、商品をシャルマンから各々の小売店に即納する体制をつくり、修理依頼などにも迅速に対応した。サービスを開始しておよそ1年。北海道から沖縄まで全国津々浦々に直販体制(サービスネットワーク)が出来たことによって、「革新的」新参者のシャルマンを認めさせることが出来たのだ。
そして2010(平成22)年。堀川製作所と合併をして、現在のメガネフレームメーカー・株式会社シャルマンが誕生した。
株式会社シャルマンの誕生
基礎技術と精密加工技術
金属加工の中でも基礎となる「金型」の製造に定評のあるシャルマンには、他メーカーからの依頼も多く、また、表面処理・加工の技術も群を抜く
360日対応のカスタマーセンター
カスタマーセンターは、小売店にとってありがたい存在である一方、シャルマンにとっても、直接の受注は、市場動向の掌握ができ、修理の受け付けは、修理箇所の把握と解決策を今後の商品開発に生かせるメリットがある